​okkaaa | 熱波

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太陽が中空をすぎて少したった頃に彼女が僕に話しかけた。でもそれは真野さんではなく僕自身の投影のような気もする。運転をするため前をずっとみていると隣にいるのが真野さんだということが認識できなくなる。光の微かな揺れ動きで少女のようにも見える。今この瞬間、風向き一つで簡単に運命が変わってしまうように思える。

「ところでなんでこんなところを走っているの?」と真野さんがいう。

「暗い闇以外の世界を知りたくて。」と僕は答えた。

「けれど出発地点は燃えてしまった。」と真野さんはとても自然な声でいう。

「はい。」僕は枯れた声で返事をする。

「でも燃えるエデンに向かう人なんてはじめて見たよ。エデンとともに生きていくということはどういうことかわかる?」少し真剣になって真野さんが言う。僕は軽く頷く。

「僕は世界から逸脱しようとしている。」

「そう、世界から逸脱しようとしている。」真野さんはおかしそうに僕の言葉を繰り返し、少し微笑んだ。

「逸脱するっていうのはとても大変だよ。でも残念ながらあなたの進行を止めることはできない。なぜなら私にはその資格がないから。何かに向かって挑戦している人が成長していったり、立ち止まったり、変化していくのを見て私は元気をもらうの。そういう人間なの。例えば、私たち今、砂漠にいるとするじゃない。あなたはいそいそとオアシスを探しに向かうの。ありがたい何かがあるとかなんとか言って。西の果てにある何かを目指していくのよ。でも私は涼しいところでそれを眺めているだけ。あなたは一人でどこまでもいけそうなの。華麗なステップで西の果てに向かっていくの。私はそこで声をかけるわけ。どう?オアシスはあった?ってね。そして私はその返答次第で元気をもらえるってわけ。ずるいなんて言わないでよね。オアシスに行きたいって言い出したのはあなたの方なんだから。」と真野さんが茶目っ気のある様子でこちらをチラチラと覗き込みながら言った。

「だから私にあなたを止める資格はないの。本質的にね。」

「うん。僕は本質的にシリアスな人間だから君みたいな人がいると救われる。」と僕は肯定した。

「ありがとう。でもね、これだけは真面目に話しておかないといけない。エデンを守るために、知ってもらいたいことがあるの。エデンの木や森林の役割や、エデンで起きている問題、そしてこの先この熱波のままではどうなってしまうのかを。」助手席に座ったまま同じ方向を見て物静かに話す。まるで子供を寝かしつける時の絵本の朗読のような声色で。僕は乾いた唾を飲み込んだ。

「この先の森は数年前から燃え始めてしまった。この世界で木々や生命体が残っている場所はごくわずかで、あの森は唯一の存在と言っていいほどなのよ。やがて人々はそこをエデンと呼ぶようになったわ。だけど、必要以上の伐採でどんどん山が消えていった。ある種はサーカス取引のために捕獲されたと聞いたわ。ある種は兵士により銃撃されたとも聞いた。商業漁業者による乱獲は21世紀初頭に個体数の劇的な減少を引き起こして、商業的収穫は、その後終了した。だけど事実上全て絶滅していたのよ。山がなければ吹きさらしって言うでしょ?山がなくなって仕舞えば風を遮るものがなくなってしまう。だからあの山がなくなってしまったら私たちの風の谷はなくなってしまう。」

「山がなければ吹きさらし。」と僕は真野さんの言葉を繰り返した。

「あなたが想像する以上にあの山はたくさんの使命を担っているのよ。」と真野さんがいう。僕は黙ってその言葉を聞いていた。あの山を燃やしたのは誰なんだろう。あの山を崩しているのは誰なんだろう。僕は想像する。

 

*

 

「私はそろそろここで。」と真野さんが沈黙を破った。

「こんなところでいいの?」と僕は真野さんに質問をする。

「いいの。ここで降りなくちゃいけないの。前々から決めていたことだから。ありがとう、ここまで乗せてくれて。」

真野さんは霧のかかった道を歩いていった。やがて真野さんの背中は霧のコントラストで黒くなっていく。後ろから抱き込むように白い霧が彼女の体を覆う。彼女は一体何者だったのだろうか。もはや、あの人が本当に実在していたかどうかは、今となってはわからない。やがて僕は本当に確信が持てなくなる。霧で消えゆく彼女の姿を僕はただただ見つめた。別れの辛さからか、悲しみと焦燥感が頭の中を駆け巡り、その熱がこの数刻を、水彩画絵を滲ませるような気持ちにさせた。

とても月が大きい夜だった。目の前に立つと、僕らの命や魂が吸い込まれるのではないかと思った。今、手を伸ばせば届きそうなあの月を眺めながら、僕は耳を澄ました。風で揺れる草木の音が聴こえたような気がした。

 

僕はその夜、夢の中で熱波を体験した。ちょうどショパンの曲が流れていた頃だったと思う。車の外は相変わらず焼け焦げていて、聳え立つ溶けた建物はもはや流氷のようだった。そんななかでエンジンが変な音を立て始めた。はじめは静かにブレーキを踏んでいたが、どうも調子がよくならない。やがて車は鉛のような重さを持ち始める。僕もその感覚と並行して体が地面に引き寄せられる感覚を得る。外に目線をやると、道路のアスファルトは飴あめのようになり、車のタイヤも溶け始めていた。エデンでは何人もの人がこのアスファルトにのまれたという噂である。アスファルトは黒い海のようになっていた。そこにそびえたつ何本もの電柱が僕に降りかかってくるようで恐ろしかった。この光景は幼少期に連れていってもらったあの荒れた海のようだった。僕はその電柱の行く末を目でなぞり、一定間隔に並んだ電柱からリズムを感じていた。それは悲しいリズムだった。絶望と孤独に満ちた旋律だった。涙を流しながら、嘆願していた。熱波で溶けるアスファルトの海の中、僕は印象的にその海を見つめ、リズムを取り、静かに歌った。この世界で息をしていたいだけ、触れていたいだけ。と。

 

燃えるものはやがて灰となって塵となる。熱波が退却して温度はひとたびに50度から-10度に下がってしまった。日が落ちると同時に車の燃料は尽きた。よくここまでもったなと感心しながら、僕はそのまま森の中で車を止めた。外は暗闇に包まれているが、所々山火事の炎がゆらめいていた。車内に座ったまま、窓を開けその景色を眺め、音を聴いた。僕は深い瞑想状態に入る。やがて森と一体となる。そして、超自然的な存在を感じる。灰が混じる澱んだ空気の中、いまだに燃え続ける森を見つめながら、昔この地で育った木々や生命体を想像し、その音を脳内で再生させた。超自然的な歓喜のなか僕は凍える体をもろともせず目を瞑った。僕は頷く。そうだ、この森の音だ。

 

この森で僕は誰かに抱かれ誰かに声を与えられた。「ごめんね、あんまりいい声を与えられなくて」と。僕の記憶は甦る。炎に囲まれる中、その人は僕の声を切り裂き、自分の喉を移植させてくれた。僕はその光景を俯瞰したカメラで見ている。カラスの目のように。

熱波の中で僕は生まれたのだ。

僕の祖父は研究者だった。この世界の熱波の現象をより良く変えたコンピューター学者だったという。祖父はこの声移植システムに未来と名付けた。「未来」という確実な響きはギラギラと凄まじい希望を照らし、同時に恐怖をも反射させた。なぜ祖父は僕に声を与えたのだろう。なぜ僕に自分の体の一部を移植させたのだろう。

カラスから僕へ目が移動する。僕は、戸惑いながらこの声を自分の意思で発声させてみる。喉が開くのを感じる。乾いて張り付いた喉がちぎれていく。唾を飲み込み、イガイガとした鱗のようなものを流す。粘膜が活動を始め、僕の声のシステムは動き始める。口を開け、肺にある空気をだし発声する。潤いのない掠れた音が鳴る。

明けがたになるまで、僕は歌いながら踊った。眠気覚ましに幾つかのレコードのジャケットを思い浮かべ、脳内で再生した。気まぐれに紡がれたその旋律は頼りないものだったが、終わりはなかった。

空が白み始めた頃、木の葉の影が手のひらに落ちる。5本の指のかたちもはっきりと見える。僕は深い瞑想から目を覚まし、ドアを開け外に出る。山の炎は途絶えることなく今もなお、揺らぎ続けていた。僕は歩き始めた。

黒焦げた広い荒野に出た。幾分歩いていると徐々に太陽が姿を表し始めた。地平線を赤く染めていく。麻痺した体を太陽が解きほぐしていく。太陽の熱と地平の冷たさの狭間に紡がれた雲たちが糸のように細く連なっている。山火事の霧の薄さが、色を霞ませ、明さまには見えないように幻想的な景色を作り出している。とても美しく、儚く心に残る景色だった。なぜだろうか、その時見た掠れた朝焼けは僕ととてもよく似ていた。

 

©︎okkaaa (2021)

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