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​okkaaa | 熱波

熱波

okkaaa 著

01. 既に世界に声は存在しなかった

霧が濃くなりはじめた。まもなく陽が射してくるだろう。浮世絵のように輪郭のはっきりとした雲が上部に群れをなし、墨の如く濃淡のはっきりとしたどす黒い煙のような見た目で空をたなびいている。やがて、雲の細い隙間から射しこむ陽の光がさまざまな高さにある通路や回路、暗い部屋のカーテン、階段、橋のような踊り場をぼんやりと浮かび上がらせ、あちこちに光を拡散させる。やがて光は残酷にも神々しく光り始め、物体が吸収できる光の容量を超えるような力を持ち始める。余った光は乱反射し、私たちを熱波にさらす。

炎熱適応のチョッキをいくつかバックに入れる。僕は支度を早く終わらせようと心がける。できるだけ手ぶらでいきたいけれど、どうしても長い旅は荷物がかさばる。なぜ荷物が必要なのか?熱いところに行かなければいい話なのだが、僕はあいにく熱波の激しいところへ行かなくてはならないようだ。車での移動だが万が一の時を考えて何枚か持っていくことにしよう。金貨や時計、いくつか暇潰しの文庫本など持っていこうかと迷ったけれど、やめることにした。その高価で煌びやかな立ち振る舞いや、先達たちの聡明な知見も少しは魅力的だったけれど、今回はそれ以上にもっと実用的で本質的なものが求められている。僕が本来持っていながら十分に発揮できていない感覚や機能を引き出し、想像もしなかった自分を見つけるには、そういうものはいらない。今僕に必要なのは記録用のこの端末だけなのだ。(いやそれすらもいらないかもしれないが)

”この世界では暗記して覚えていても知っていることにはならない。それは教わったことを記憶に保存しているだけ。書物に頼った学識は単なる装飾であり、自分の土台にはならない。自分を映す鏡は世界。自分を正しく知るために、我が生徒は世界を教科書にしてほしい。”

モンテーニュは『エセー』でこう述べた。僕はこの言葉に大体は従っていると思うし、確かに胸の奥にしまっている。だからこそ僕はこの世界を飛び出すことに必然性を感じているし、闇の中ではない世界を見る必要があると思う。

闇の世界を革命派はリラックスをもたらすものだと説明する。そして、熱波がおさまるまで人々は暗闇の建物の中に入り、遮光性のあるボックスの中で眠る。眠りに向かうそのシーズンは、多くの人が食糧を買い込むため、食糧不足になりがちだ。眠りに向かうシーズンが過ぎると、店の棚には一切の商品が存在しない。商業施設はもちろんの事、全ての都市の機能が失われる。ネオンは全て消え、信号機、街の自動販売機、公共交通機関、ダムなどの設備は全て止まってしまう。そのため、熱波の中を彷徨う行為は自殺行為に等しい。熱波に覆われた世界には多く規制があり、多くの活動に制限がかかる。僕らの地区は熱波時には眠りにつくため、眠りの間の世界を知ることはない。ネットワークは全て分断されており、その地区のものしか聞けないようになっている。

今、僕は「暗闇しか知らない」という事実に弱さを感じている。僕は物事の分別がつくようになるまでに、この弱さを克服する必要があると思う。

僕は、声のdb.数を最小限に設定しながら、外に出た。自分の指定のボックスまで足を運ぶ。そこではスタッフとのコミュニケーションがあるかもしれないと僕は想像する。いくつかdb.を確保しておいた方がいいと思ったが、結局スタッフと話すことはなかった。眠りに入る前の人々はdb.を使い切っていることが多く、その過程においてあまり声を発することはないのだ

暗闇の中で、人々は各々のボックスに入っていく。僕も自分のボックスへ到着したが、内部で操作をすることはしなかった。僕は暗闇の中で外へ出る機会を伺っていた。眠りへと向かうスイッチを押した人々の空気圧が響いてくる。時間が経つたびその音が増えていく。まるでポップコーンのように。なだらかに音が鳴り始め、やがてピークが訪れる。ピークが去った後は僅かな音しか残らない。僕の周りはすでにピークは過ぎており空気圧の音も二分間隔になっていた。

やがて太陽の屈折率が大きく変わり始めた。暗闇のベールを剥がされる時が来た。熱波で多くの時間、熱にさらされた岩肌が姿を表した。慣れない光の量だった。いろんな物質や建物を反射した光が空中に漂い始めた。やがてその光は僕のボックスまで届くようだった。ボックスの内部の空調を管理するマザーボードに繋がれた幾重ものケーブルが光にさらされ、光線のようになってこちらに向かってくる。場内には警報が鳴り始めている。耳鳴りのするような高音波とパターン化されたリズムが永遠とループされている。やがてそのループの速度は上がり、僕の脳内の侵食が始める。「ボタンを押し、早急に眠りへ向かってください。」というメッセージが僕の網膜を覆っている。恐ろしいプレッシャーと切迫感に襲われた。光はあらゆる生命を無常に消し去り、破壊していく。全ての有機物が蒸発していく。水や花や草木や食器や絵や椅子やベッドや帽子、目に見える全てのものが蒸発していく。僕の体はサイレンのはち切れそうなループの轟音と目の前のボックスのケーブルの光線、そして蒸発する全ての物質の煙に覆われていた。やがてループの警告音はハープに、ケーブルの光線は星に、物体の蒸発は自分自身を焚く煙に。眠りへ向かう世界が僕を照らす。これは僕の世界の始まりの時。死は生の末端に違いないけれど、はじまりを告げる扉でもあるのだと実感する。死は生の終末ではあるけれど決して終わりではない。自身のうちへと入り、未知の部分と対峙するための重要な扉なのだ。

陽が射しはじめ、静寂が訪れた。太陽の屈折率が大きく変わり世界は真っ白になっている。僕は涙を拭い、となりにある遮光性メガネをかける。目の前の景色に目が馴染んできた頃、思わず息を止めた。色はまだはっきりとは分からない。けれどもコントラストがはっきりとしている。輪郭がある。溶けた建物の峰々としたこの風景がはっきりと見える。そんな目の前の光景を理解することができなかった。地平線がしっかりとある。判然としないながらも僕はここから進んでこの世界を確かめなければいけないと、そう思った。

静かに車両のエンジンの音だけが鳴った。ここから僕だけの世界が始まる。まだ見ぬ希望と感覚を見つけると何度も唱えるように、僕はハンドルを握り真っ白な世界でエンジンを駆動させた。

02.草深

ナレーション

SHPメディアラボ教授で、画期的な音声インターフェイス研究者として知られる草深裕(クサフカヒロシ) 氏が、コンピュータ・ヒューマン・インターフェース学会で、最高の名誉である「名誉研究賞(Honor Research Award)」を受賞しました。

草深氏はノンパラレル音声合成の変換モデル*VVAE(Voice Variational Auto Encodeの略)を開発し、ノンパラレル音声データを教師信号に、音声の性質を保持したまま、声質のみを対象の話者に変換するという技術を確立させました。Vocoderによって入力話者の音声特徴量を抽出し、特徴量を変換し、合成するというシステムは、変換モデルはCVAEを用いているため、ラベルを指定してそのデータを生成できる初の教師あり学習モデルです。その技術を応用し、特徴量の座標を画像変換しそれを視覚で捉え、脳で瞬時に知覚し声を発生させると言う技術を開発し世界で注目を浴びています。

草深氏の30年にわたる研究活動を支えたエネルギー源は何なのか、彼は一体何者なのか─本日は佐々木行ったインタビューの模様をお届けします。

 

草深

私たちがその人を認識するとき、その全ての体系は、第一印象で決まるとも言われています。その認識プロセスの中で、100%のうち視覚情報(Visual)は55%、聴覚情報(Vocal)は38%も占めています。私たちは視覚と同時に聴覚を大切にしてきました。あなたにとって今の私はどう写っているでしょうか?

 

(カメラが被写体から徐々にズームアウトしていき、研究室の椅子に座った草深の背中が写る。やがて草深は角度を変え、こちらの方向を向いた。)

 

現在、イルカがどのような周波数音波を通じてどのようなコミュニケーションをとっているのか、と言う問題はまだ完全には解かれていません。しかし私たちは少し知恵を振り絞ってそのコミュニケーションの方法をズルして再現する方法を思いついたのです。音声データをフーリエ変換で性質変換させる方法はみなさんご存知ですか?Vocoderによって入力話者の音声特徴量を抽出し、特徴量を合成する。ただこの技術は機械を通してではないと実現できません。あなたが携帯から変換された音声を聞くようにね。私は今、音声変換技術を使ってその方式であなたに話しかけています。私はある事件で声を失っていてそれ以降はこの技術を用いて会話をしています。しかし、それでは通訳アプリケーションを使っているのと何ら変わりはありません。私たちの目指すものは変換ではなく、もう一度自分の声を取り戻すこと。つまり、生得的な、生まれ持った資質のような声の機能をもう一度植え付けると言うことです。みなさんもご存知の通り声は波です。声帯が震え生み出した振動を音として捉え、それを聞いて私たちは自分たちの声を識別しています。しかしその声を使わず周波数だけを用いコミュニケーションをする方法を思いついたのです。

どのようにズルをしたのかというと、私たちがどう声を認識させ、どう知覚するかの前提を少し変えてみたのです。少し込み入った話になるのですが、フーリエ変換を使うことで時間領域の情報を周波数領域の情報に直せると言う技術があります。この表現では、中心に近いほど低い周波数・遠いほど高い周波数の成分を含む画像として可視化されます。私たちはその理論を応用しました。脳で信号化された周波数を画像化させそれを口から放射します。そしてその周波数の画像を認識する技術を脳内にインプットし、瞬時に周波数が脳内で変換されると言う方法です。

 

佐々木

現在カナダでは熱波症候群という声を失う不明の病が蔓延していますよね。異常気象による熱波が原因だとされていますが、草深さんのこの研究が今大いに期待されています。今後この技術が世界で適応されることが出来るのでしょうか?また、最初の目的は、音声変換エフェクトのエンジンの開発でしたよね。なぜ、それを応用しようと思ったのですか?

 

草深

研究の方向性を変えたのは少し込み入ったきっかけがあったのです。これから私が話す話は、少し信じ難いかもしれません。正直今でもあまり上手く噛み砕けていません。ただこの事件は私の中で最も不思議で最も強烈なものだったと記憶しています。

私は長期休暇で山を訪れていました。私はハイキングやら登山やらの類のものが好きで、よく外へ出かけるんです。数年前の夏はかなり猛暑で徐々に気温が上がっていった年ですから、都心よりも森の方へ、リトリートしようと考えたんです。木陰の林道の風は爽やかで冷たい風が肌を攫い、マイナスイオンを感じる引き締まった空気が体に染みました。鳥はおおらかに歌い、聳え立つ山々は雄弁に緑を輝かせこちらに迫り来るような佇まいでした。その時はこの後何かが起きるようなおかしな予兆などなくそれはとても穏やかなものでした。その後、確か午後五時半ごろだったと思います。日が少し傾きだし、地平が黄金色に輝き出す頃、私は感じたことのない暑さを感じました。それもじんわりと感じる暑さではなく、瞬間的なもので、大きな打撃を与えられたような、鈍器で殴られたような暑さでした。言葉では形容し難いですが、とにかくそれは味わったことのない感覚だったのです。暑いというよりかは、熱に焼かれるような一瞬でした。しかしそれはわかりやすい現象ではありませんでした。なぜなら周りの植物は生き生きと葉っぱを繁らし、揺らしています。川の音とひぐらしの音、それに鳥の声だって聞こえます。もちろん周りの自動車や人工物の影響だろうと考え周りを見渡しました。しかしそこ一帯に人工物らしきものはなく、ただ一辺に林が目の前に広がっているだけなのです。どうしたものかと私も頭が混乱しました。もしかすると大気の影響かもしれないと感じガスや有機物の毒性も疑いました。しかし色の変化や異臭はなく、むしろ空気は透き通っていました。そこで自分の体調がただ悪いだけなのかもしれないという可能性に気づきました。そこで私は宿泊地であった3km先のログハウスに帰ることにしました。森のはずれから道路のある方向に向かって歩き始めました。そこに人影はなく何事もなかった佇まいです。多分歩き始めて十五分ほどのことだと思います。目の前にものすごい勢いで走ってくる車を見かけました。普段目にするような車でなかったのでものめずらしく見つめていたのでその時のことはよく覚えています。しかし私に近づくにつれて速度が緩むようでした。まるで私を目掛けて止まるかのように。恐ろしいことに予感は的中しました。その車は私の隣でエンジンを止めて、静かに止まりました。道にでも迷ったのでしょうか。私はその運転手に話しかけてみることにしました。窓をノックしてすぐに驚きました。少年がこちらを睨みつけていたのです。ただ様子が少しおかしかったので意識を確認するように私は声をかけました。どうかされましたか。と。しかしその少年は、口は動いているのに声は出ていませんでした。私はなるべく読唇術を試みました。しかし何も読み取れませんでした。しゃべろうとするその意思そのものがないからです。話さないというよりかは、喋ることに怯えているかのようにも見えました。何か胸の中にあるものをセーブしているかのようでした。次第に私は意識が朦朧としてきました。先程の熱のせいか、焼け焦げるような内部の暑さと、めまい感に襲われました。少年は一歩もそこから動かず、ただただ私を車内から睨みつけているだけなのでした。そこからはよく記憶していません。ショックで私のその体験は滲み、今となっては持ち出すことのできないものとなってしまいました。

気がつくと私はログハウスにいました。確か二十時ごろだったと思います。気を失ってから数時間後のことでした。周りには誰もおらず暗闇のログハウスの静寂だけ確認できました。私は起き上がり、周囲を見渡しました。足元にはゴミが散乱していました。赤い絵の具のようなものも撒き散らかされていました。目を凝らしてよく見ると、それは人の血液のようでした。私はそこで初めて気づきます。その血液が自分のものであるということに。5本の指は赤く染まり、自分の一部と認識できないほどでした。喉にも違和感がありました。粘膜が動き、振幅させる喉の機能の存在を感じることができないのです。そこで私は、自分が声を失ったことに気づいたのです。

私はこの森で熱波による大災害が起きていたことをその後知りました。六十度以上の熱波に3か月以上も見舞われ多くの被害者が生まれました。地球温暖化が起こした事態と説明されていましたが、科学者は直接的な原因はわからず異常気象としか説明しなかった。一部ではあったが熱波が引き起こした有機的な毒のせいであることは間違いないと当時は報じられていました。しかし不思議なことにこの大災害は私の訪れた1ヶ月後に起こったのです。私はその事件と私自身の声の喪失の関連性を強く疑わざるを得ませんでした。

03.スタートラインはとっくに溶け始めている

数週間の間、僕は車を走らせ、この枯れ果てた世界を走り続けた。気がついた時には引き返す理由が生まれる容量を超えてしまっていたし、すでにもう説明不可能なレベルまで来てしまっている。スタートラインはとっくに溶け始め、熱波の侵食が始まっていた。特段シェルターに入っていれば飛び出す必要もないのだが僕は飛び出した。

枯れ果てた道、干上がった海のプレートに申し訳なさげに作られた非常用のアスファルトを走っている。車の運転は自分の命がこのハンドルを握る手に全て委ねられているという事実から、自分の人生を自分で握っているようなスリリングな感覚があって好きだ。ただこれは好みの問題ではあるが、一面干上がった広大な海のプレートを地平線と睨めっこしながら走るのではその感覚は味わえない。常時150km以上は出しているのだが(そもそも速度制限などという概念がない)一向に地平線は姿を変えず、そのままの状態を保っている。対向車線は秘境の森の奥にでも入ったかのような神秘さすら感じられるほど人はおらず、物寂しい雰囲気だ。僕は少し寂しさを紛らわすためにチューニングを始めた。ドライブに音楽がないのは水槽に水の入っていない水族館のようなものだ。車内に取り付けられた丸型のレバーをくるくる回しながら調整を進める。チャンネルから声が聞こえるのは本当に稀だ。自分の声量db.を購入するようになってからは好んで自分から声をあげることはしなくなってしまった。ただ偶発的な出来事によってこのdb.は使われることになる。それは、まるで晴れ時々曇りと知らされる天気予報のように。

ラジオから流れてくるものは全て音楽だった。気付いたらここ数年は歌うことをしていないと気付いた。今チャンネルにあげているのはパラレルデータを使った打ち込みの歌。僕は過去の「歌う」という行為に一種の憧れを抱いている。自由自在にメロディーを奏でる。それはどんな感覚だろうか。想像してみる。目の奥にいくつも重ねられてきた僕の歌の記憶の断片が滲みあって奇妙な印象を作り上げている。音声の印象は、実在する音のみならず誰かの聞いた声、どこかで聞いたノイズ、昔の光景にあった微かな振動、そんな過去の眼差しから生まれてくる。波の単調な旋律、踊るように配置された音符の楽譜、これらすべてのものは僕の中にはわずかな断片でしか存在しない。もしくは、僕がそれらのものに依存して思考している。それでも僕は音楽を想像する。それは音楽的に、絵画的に、理屈抜きに、三段論法も、演繹法も無しに。しかし、その奥深く、声の断片のさまざまな印象が重なるその瞼の下にはなんとも形容し難い滲んだ断片しかないのだ。

僕にあるのは、孤独、沈黙、それでいて太陽の類ない光線。光線は地平線上にぶるぶる震わせながら、その内実の孤独の生活をかたどっている。

僕の声にまつわる一番古い記憶は、祖父からノンパラレル声質をもらった時だ。市場にある声質データは手が届かないほど高価となっていて、世界における3%の富裕層のみが手に入れることができる幻の存在だ。とはいえ裏市場で粗悪な声質データが出回っているという話もあるが、僕はそこの込み入った話はあまり知らない。「ごめんね、いい声を与えられなくて」と祖父が私に喋り続けていたのは覚えている。当時の僕は何がそんなに悲しいことなのかわからなかったし、声も出なかったので理解できていたことは一つもない。ただ必死に祖父の涙を拭おうとしていたのは覚えている。

今もなお、この子供の頃の記憶は脳内の奥深くで柔らかな印象の中に包まれていた。音の鳴らないオルガンと海辺。そこから印象の糸は紡がれ始める。毎年両親は時間をかけて、僕を海へ連れ出した。もう綺麗な海は見られなくなるかもしれないと行ってドライブへ連れて行った。海といっても、海面上昇の影響で海辺は別世界への入り口のような印象をすでに持っていた。水に浸った何本もの電柱が遠くまで続いている光景は、失われた場所を前にした時の喪失感と少し似ている。僕はその電柱の行く末を目でなぞる癖がついていた。僕はその癖がついてから以来、海辺を訪れるたびに、何かを探し求める透過した過去への眼差しを向け続けている。

陸と海の境界線がない世界で僕は目で海の電柱をなぞる。一定間隔に並んだ電柱からリズムを感じる。荒れ果てた海のゴミの波が鳴り響く中、僕は絵画的にその海を見つめリズムを取ることで自分だけの印象を作り上げていた。

僕はそんな過去の音楽の記憶を思い浮かべながらただ車を走らせていた。そんな意識のなかで、視線をさらに遠くに向けるとdb.補給場の方向からこちらに向かってきている人影に気づく。女性のようだ。その人はこちらに向かって手を振っている。僕はその人のそばまで行き車を止めた。

「エデンの方まで行くんでしょ?乗せて行ってよ。」と窓越しでその人は叫ぶ。

久々に人と話すせいで、ぼくは声に詰まり適切な返事ができなかった。「あ」と掠れた声で生返事をしただけだ。僕はその時一年以上db.を購入していないことにここでようやく気づいた。

「とりあえず、助手席失礼!」慌ただしく返事も待つ前にこの人は乗ってきた。僕はひとまず車を出すことにした。そのまま車内にはラジオの音楽だけが流れていた。僕は眠りに入っている時期じゃないのか?なぜ起きているのか?とその人に聞いた。

「ボックスに入りそびれちゃった人って結構いるのよ。私は久々だけど、やっぱりこの環境はなれないよね。」とその人はいう。僕はなれない会話にただ頷くだけだった。

「あなたもきっとそうじゃないの?」とその人はいう。」

僕は小さく頷く。そして彼女は矢継ぎ早に自分の名前が真野であるということも告げた。先行きの僕のdb.の問題を心配しながらも自分の口から、生い立ちや過去の話をしてくれた。僕はその話に水彩画絵の具を載せるようにゆっくりなぞりながら自分の記憶を重ねていく。自分の話もしたいが、db.は残りわずかだった。この熱波がおさまるまで交換所は開いていないし、それにいつこの熱波が収束するのかも…

ラジオからピアノが流れ始めた。クラシックピアノだ。ピアノを聴くのは何年振りだろうか?車内を豊かな旋律と印象で包み込むようだった。曲調が変わるタイミングでキャスターの曲紹介が入った。キャスターは特に力を入れず、それでいて誠実に、真摯に声を真っ直ぐと出していた。ナレーションが入ることは珍しいことだった…「お送りする曲はショパン/ピアノ・ソナタ第2番、変ロ短調「葬送」第3楽章。」

僕は曲名を思わず呟いた。荘厳に鳴り響くピアノのダイナミックな旋律の中で僕のこの声だけが空虚に鳴り響いた。

「燃えるエデンの方向に行く人、初めて見たよ。」

僕は物倦じ行く先の方向を見つめていた。もう引き返すことはできない。スタートラインはとっくに溶け始めているのだから。僕は燃えるエデンのように超自然的な歓喜を夢みながら、悲しんでアクセルを踏んだ。

 

04.赤のコントラスト

 

草深

私はあの熱波の中で起きた一連の事件が気になりましたので数日にわたって森やログハウスを訪れました。一部ではありますが既に森は焼けてしまっていました。**県、西側にある**町へと続く道路は、焼け焦げた木々と牧草地に囲まれていました。青々と茂っていた広葉樹や都市の何十倍もの種の生命体の姿はもうありませんでした。そこは夏になるとヒグラシが鳴き、鳥は群れをなして空を優雅に飛び回り、時折小動物すら姿を表しました。森には樹木だけでなく、草花やコケといった植物、菌類、微生物、昆虫、鳥類、爬虫類、哺乳類などの様々な動物が生息しています。森で生きていくことってどういうことかわかりますか?みんな生態系の中の絶妙なバランスを保って生育しているんです。私は羨ましいなと思いますよ。そういう意味で私たちは絶妙なバランスを保っているのかもしれないけれど。時の流れの早いこの時代の中でいろんなものを消費していく、時にそれは単位の集合体となってある生命体を壊すほどに搾取している。それを使って楽しむ人もいれば好んで孤立する人もいる。私たちは生きていく中で適切な人と適切な距離感で話しているようにそれまでに幾重もの調整がなされる。だからこそ気の置けない友達と出会えるその一瞬が喜ばしかったりするわけです。でも残酷なもので人の信頼は築くのにはあんなにも時間がかかるのに、壊れるのは一瞬なのです。こんな残酷な世界よりもずっと森の方が多様性に満ちているし、美しい。だけどそうやって現実世界を諦めろと言っているのではないです。だから私はこうやってその経験を生かして研究を始めたんです。妻が他界した時ですらその事件のことをずっと追っていたぐらいですから。

私は連日ログハウスの周辺の村を調べていました。マップを調べるとこの数km先に小さな集落があるということがわかりました。既にその村は焼け焦げてしまっていましたが、何とか住民を見つけ、話を聞くことができました。小さな集落でしたがその時起きたことを私に説明してくれるというのです。私はあの事件のその後でなにが起きていたかどうか知りたかったのです。責任というと少し硬い言葉になるかもしれませんがそう言ったニュアンスに近いような感情をその時私は抱いていました。

彼女は「もうログハウスのあの夏は戻ってこない。もはやここにはあの思い出は存在しない。」と私に話しました。彼女は農業用の水を使って間一髪で身を守ったと説明してくれました。「子供たちは泣き叫び、火の手は玄関先まで来ていて、隣は車の倉庫。私たちの命は守れましたが、今の私たちに何が残っているというのですか。村はたくさんの動物とブドウ畑で成り立っているのに、全部なくなってしまった。」と私に語りかけてくれました。感傷的になってはいけないと思ったのか、火傷した手でズボンの裾を強く握りしめ、常に真面目にそして誠実に言葉一つ一つを選んでいました。時折見せる怒りのような言葉の魂がその面影の裏にある涙を私に見せるのです。

地元のブドウ畑の会社のマネージャー江島さんは、丘から炎が迫ってくるのを見たと言います。

「私たちは四方を完全に囲まれていて村を去るのは不可能でしたから、怖かったです。すべてが焼き尽くされると思いましたし、消防士はここに来るには忙しすぎたので、私たちの優先事項は事業を守ることでした。ウォータータンクをトラクターに載せて全力を尽くしたんです」と改修したばかりの古屋の黒くなった残骸の隣に立ちながら語っていました。

大樹や昔からあるルビー色のブドウ畑が広がっていたこの森の景色は、今や素朴な黒焦げた残骸がしがみついている無残な光景へと変わってしまっていました。

ただこの火事の原因は未だわからずじまいでした。勿論、私の声の喪失についても。ただ手掛かりとなったのはあの少年の存在でした。山火事が起きる前に強烈な熱波に襲われた経験をしたものですから。ただ彼の手掛かりはログハウスから離れた森の奥という不確かな場所の認識と車だけです。私はそれを頼りに森を歩いて行きました。ただ昔の光景は既になく、木で覆われていた自然の壁は消え失せ、広大に広がる灰色の残骸と澄み渡る空だけです。むせ苦しい煙の匂いと視界を阻む白い煙だけが私の目の前にありました。ただ目線をその先に向けると一部だけ煙が多く上がっていることに気づきました。それは局所的な山火事というよりかは、何かを燃やしているような煙の上がり方でした。私は住民がいるのかと思いその場所へすぐ駆けつけました。大気の影響で視界は真っ赤でした。オレンジ色、いや赤に近いモヤがかかっていました。やがて森一体が赤に染まって行きました。木々の骸はコントラストを帯び始め、輪郭がはっきりしていくようでした。舞う枯葉は真っ黒い真珠のように、木々の枝は鋭い剣のように。目の前は戦国時代の黄金色の屏風のような景色でした。まさに、戦場だったのです。

その時私は私の先に人影があるという事実に気付きました。隣には車の影もあります。赤のコントラストで顔面や詳細な姿は見えませんでしたが、その影ははっきりと人間だとわかりました。その影は私を睨んでいます。目線を外すことなく、何かを訴えかけるようにこちらを見ていました。するとその目線を察知した私は背中にざらざらした鱗のようなものが生えてくるのを感じました。恐ろしい寒気と熱気のはざまで今私に何ができると言うのでしょうか。

真っ赤なコントラストの世界に染まった、真っ黒な少年の体は、灼熱の地でたちすくむ焼け焦げた人の姿を彷彿とさせました。私は震えたった体を懸命に動かしながら、そのまま彼に近づきました。やがて黒がかったコントラストが消え、本来の面影が姿を表しました。私はその人間があの時の少年であることを願いました。正直、真相に近づきたいというエゴとそうあってほしくないという想いが一緒くたになり複雑な心境でした。その人影は背が高く、上半身だけは未だコントラストに包まれていました。私は彼に声をかけようとしましたが声を失っていることに気づき、何とか伝えようとタブレットを出してインタビューの時同様文字で語りかけようと思いました。その時彼は徐に語り始めたのです。「僕は声を扱うことに恐怖みたいなものを感じている。このような声だから、これまでいろんなところでいろんな差別を受けてきた。これがどれだけ辛いことなのか、深く人を傷つけるのかそれは僕にしかわからない。だから世界を変えたいと思った。だけどその声を利用するやつが出てきた。高価な声を見繕い、うわべだけの愛を綿クズで埋めているくせに、自分では傷つかない人間だ。僕はそれを側から見て、未来を自分の手で間違った方向へ向けているのかもしれないと怖くなった。」彼は私にそう言い放ったのです。その少年は僕にとてもよく似ていました。まるで僕の心を代弁するかのようでした。私は彼になんて声をかけたらいいのだろう。かける言葉が見つからずそこでただ茫然としてしまったのです。私はその未来という言葉の確かな響きに震えていました。絶望感とそこから生じる焦燥感が私の内部へじんわりと侵食をはじめていました。少年の言葉で私は私の虚無さを垣間見たのです。私が今行っている研究は正しい人に届き、正しい過程を経て、手渡されることができるのだろうかと。私は私の研究が自分の知らない範囲で細胞分裂を繰り返す微生物のように大きく膨張していくのを想像し、手のつけられない大きさまで成長するのを見て絶望します。元の姿とは全く変わってしまったシステムを見て責任感のようなものを感じました。今すぐに吐いてしまうほどの重圧を感じました。私はできることならその炎の中に飛び込んでしまいたいと思いました。すると少年が私の意思とリンクするようにおもむろに燃える車に飛び込もうとしたのです。私は急いで彼の背中を掴み止めようとした。しかし私は彼を鈍器で殴り、声帯を剥ぎ取り、無性に彼を破壊しようとしていたのです。コンピューターを分解するように。脳内の絶望を葬るように。私は、燃える車の隣で一人の少年の命を奪ったのです。

(草深はデスクから体を後ろに傾け、カメラの方を見つめた)

私はもう逃げも隠れもしません。このインタビューを読んでいる皆さん。熱波で失われた声を生得的なものとして認識させなければこの未来が繰り返されてしまうでしょう。だから私の技術の全てこのウェブサイトに置いて行きます。残念ながら私はこの罪の意識に耐えることができませんでした。私に研究する資格などありません。これを読んでいるどなたかが正しい未来に導いてくれることを信じて。

 

ナレーション

画期的な音声インターフェイスの研究者として知られる草深氏のこの告白は全世界で注目を集め、連日、テレビでも大きく報道されました。

警察の調査によると実際に現場での車や少年の遺体などはなく証拠もなく目撃者もいないままで事件は架空のものとして考えられました。警察は、「草深氏は度重なるインタビューで気候不安症に陥った」と説明しています。

「地球の危機的状況に対する慢性的な強い恐怖のことで、不安感や極度の喪失感、無力感、悲嘆、怒り、絶望感、罪悪感、などを強く感じる症状です。草深氏は病に侵され幻覚を見ていると思われます。声帯器官も専門家によると支障はないのですが、ショックから思うように声が出せなくなってしまっているようです。」

一部市民からは自分の音声インターフェイスを世間に知らせるためのプロモーションの一部だと非難する人もいました。彼の話は確かに信じ難いです。しかし熱波に襲われヒートフォグ現象など一部の被害があることは見逃せません。彼の声明を勇気あるものだと捉えるか、御伽噺だと捉えるかは個人の自由に委ねられています。彼は今後どう評価されていくのでしょうか。ではまた来週。

 

ナレーションの締めの言葉と同時に放送は幕を閉じた。その後の草深氏の消息は未だ誰も知らない。ドライアイスが液体を素通りして、いきなり蒸発するみたいに彼は姿を消してしまったのだ。

 

05.この世界を愛していたいだけ

太陽が中空をすぎて少したった頃に彼女が僕に話しかけた。でもそれは真野さんではなく僕自身の投影のような気もする。運転をするため前をずっとみていると隣にいるのが真野さんだということが認識できなくなる。光の微かな揺れ動きで少女のようにも見える。今この瞬間、風向き一つで簡単に運命が変わってしまうように思える。

「ところでなんでこんなところを走っているの?」と真野さんがいう。

「暗い闇以外の世界を知りたくて。」と僕は答えた。

「けれど出発地点は燃えてしまった。」と真野さんはとても自然な声でいう。

「はい。」僕は枯れた声で返事をする。

「でも燃えるエデンに向かう人なんてはじめて見たよ。エデンとともに生きていくということはどういうことかわかる?」少し真剣になって真野さんが言う。僕は軽く頷く。

「僕は世界から逸脱しようとしている。」

「そう、世界から逸脱しようとしている。」真野さんはおかしそうに僕の言葉を繰り返し、少し微笑んだ。

「逸脱するっていうのはとても大変だよ。でも残念ながらあなたの進行を止めることはできない。なぜなら私にはその資格がないから。何かに向かって挑戦している人が成長していったり、立ち止まったり、変化していくのを見て私は元気をもらうの。そういう人間なの。例えば、私たち今、砂漠にいるとするじゃない。あなたはいそいそとオアシスを探しに向かうの。ありがたい何かがあるとかなんとか言って。西の果てにある何かを目指していくのよ。でも私は涼しいところでそれを眺めているだけ。あなたは一人でどこまでもいけそうなの。華麗なステップで西の果てに向かっていくの。私はそこで声をかけるわけ。どう?オアシスはあった?ってね。そして私はその返答次第で元気をもらえるってわけ。ずるいなんて言わないでよね。オアシスに行きたいって言い出したのはあなたの方なんだから。」と真野さんが茶目っ気のある様子でこちらをチラチラと覗き込みながら言った。

「だから私にあなたを止める資格はないの。本質的にね。」

「うん。僕は本質的にシリアスな人間だから君みたいな人がいると救われる。」と僕は肯定した。

「ありがとう。でもね、これだけは真面目に話しておかないといけない。エデンを守るために、知ってもらいたいことがあるの。エデンの木や森林の役割や、エデンで起きている問題、そしてこの先この熱波のままではどうなってしまうのかを。」助手席に座ったまま同じ方向を見て物静かに話す。まるで子供を寝かしつける時の絵本の朗読のような声色で。僕は乾いた唾を飲み込んだ。

「この先の森は数年前から燃え始めてしまった。この世界で木々や生命体が残っている場所はごくわずかで、あの森は唯一の存在と言っていいほどなのよ。やがて人々はそこをエデンと呼ぶようになったわ。だけど、必要以上の伐採でどんどん山が消えていった。ある種はサーカス取引のために捕獲されたと聞いたわ。ある種は兵士により銃撃されたとも聞いた。商業漁業者による乱獲は21世紀初頭に個体数の劇的な減少を引き起こして、商業的収穫は、その後終了した。だけど事実上全て絶滅していたのよ。山がなければ吹きさらしって言うでしょ?山がなくなって仕舞えば風を遮るものがなくなってしまう。だからあの山がなくなってしまったら私たちの風の谷はなくなってしまう。」

「山がなければ吹きさらし。」と僕は真野さんの言葉を繰り返した。

「あなたが想像する以上にあの山はたくさんの使命を担っているのよ。」と真野さんがいう。僕は黙ってその言葉を聞いていた。あの山を燃やしたのは誰なんだろう。あの山を崩しているのは誰なんだろう。僕は想像する。

 

*

 

「私はそろそろここで。」と真野さんが沈黙を破った。

「こんなところでいいの?」と僕は真野さんに質問をする。

「いいの。ここで降りなくちゃいけないの。前々から決めていたことだから。ありがとう、ここまで乗せてくれて。」

真野さんは霧のかかった道を歩いていった。やがて真野さんの背中は霧のコントラストで黒くなっていく。後ろから抱き込むように白い霧が彼女の体を覆う。彼女は一体何者だったのだろうか。もはや、あの人が本当に実在していたかどうかは、今となってはわからない。やがて僕は本当に確信が持てなくなる。霧で消えゆく彼女の姿を僕はただただ見つめた。別れの辛さからか、悲しみと焦燥感が頭の中を駆け巡り、その熱がこの数刻を、水彩画絵を滲ませるような気持ちにさせた。

とても月が大きい夜だった。目の前に立つと、僕らの命や魂が吸い込まれるのではないかと思った。今、手を伸ばせば届きそうなあの月を眺めながら、僕は耳を澄ました。風で揺れる草木の音が聴こえたような気がした。

 

僕はその夜、夢の中で熱波を体験した。ちょうどショパンの曲が流れていた頃だったと思う。車の外は相変わらず焼け焦げていて、聳え立つ溶けた建物はもはや流氷のようだった。そんななかでエンジンが変な音を立て始めた。はじめは静かにブレーキを踏んでいたが、どうも調子がよくならない。やがて車は鉛のような重さを持ち始める。僕もその感覚と並行して体が地面に引き寄せられる感覚を得る。外に目線をやると、道路のアスファルトは飴あめのようになり、車のタイヤも溶け始めていた。エデンでは何人もの人がこのアスファルトにのまれたという噂である。アスファルトは黒い海のようになっていた。そこにそびえたつ何本もの電柱が僕に降りかかってくるようで恐ろしかった。この光景は幼少期に連れていってもらったあの荒れた海のようだった。僕はその電柱の行く末を目でなぞり、一定間隔に並んだ電柱からリズムを感じていた。それは悲しいリズムだった。絶望と孤独に満ちた旋律だった。涙を流しながら、嘆願していた。熱波で溶けるアスファルトの海の中、僕は印象的にその海を見つめ、リズムを取り、静かに歌った。この世界で息をしていたいだけ、触れていたいだけ。と。

 

燃えるものはやがて灰となって塵となる。熱波が退却して温度はひとたびに50度から-10度に下がってしまった。日が落ちると同時に車の燃料は尽きた。よくここまでもったなと感心しながら、僕はそのまま森の中で車を止めた。外は暗闇に包まれているが、所々山火事の炎がゆらめいていた。車内に座ったまま、窓を開けその景色を眺め、音を聴いた。僕は深い瞑想状態に入る。やがて森と一体となる。そして、超自然的な存在を感じる。灰が混じる澱んだ空気の中、いまだに燃え続ける森を見つめながら、昔この地で育った木々や生命体を想像し、その音を脳内で再生させた。超自然的な歓喜のなか僕は凍える体をもろともせず目を瞑った。僕は頷く。そうだ、この森の音だ。

 

この森で僕は誰かに抱かれ誰かに声を与えられた。「ごめんね、あんまりいい声を与えられなくて」と。僕の記憶は甦る。炎に囲まれる中、その人は僕の声を切り裂き、自分の喉を移植させてくれた。僕はその光景を俯瞰したカメラで見ている。カラスの目のように。

熱波の中で僕は生まれたのだ。

僕の祖父は研究者だった。この世界の熱波の現象をより良く変えたコンピューター学者だったという。祖父はこの声移植システムに未来と名付けた。「未来」という確実な響きはギラギラと凄まじい希望を照らし、同時に恐怖をも反射させた。なぜ祖父は僕に声を与えたのだろう。なぜ僕に自分の体の一部を移植させたのだろう。

カラスから僕へ目が移動する。僕は、戸惑いながらこの声を自分の意思で発声させてみる。喉が開くのを感じる。乾いて張り付いた喉がちぎれていく。唾を飲み込み、イガイガとした鱗のようなものを流す。粘膜が活動を始め、僕の声のシステムは動き始める。口を開け、肺にある空気をだし発声する。潤いのない掠れた音が鳴る。

明けがたになるまで、僕は歌いながら踊った。眠気覚ましに幾つかのレコードのジャケットを思い浮かべ、脳内で再生した。気まぐれに紡がれたその旋律は頼りないものだったが、終わりはなかった。

空が白み始めた頃、木の葉の影が手のひらに落ちる。5本の指のかたちもはっきりと見える。僕は深い瞑想から目を覚まし、ドアを開け外に出る。山の炎は途絶えることなく今もなお、揺らぎ続けていた。僕は歩き始めた。

黒焦げた広い荒野に出た。幾分歩いていると徐々に太陽が姿を表し始めた。地平線を赤く染めていく。麻痺した体を太陽が解きほぐしていく。太陽の熱と地平の冷たさの狭間に紡がれた雲たちが糸のように細く連なっている。山火事の霧の薄さが、色を霞ませ、明さまには見えないように幻想的な景色を作り出している。とても美しく、儚く心に残る景色だった。なぜだろうか、その時見た掠れた朝焼けは僕ととてもよく似ていた。

 

・「まだ生きているのは奇跡」サルデーニャ島で発生した山火事の爪痕

,https://www.gizmodo.jp/2021/08/sardinias-terrifying-firestorm.html

「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店-“夏”

・“カナダで49.6度 熱波は「人為的な気候変動が要因」 論文発表へ”,https://mainichi.jp/articles/20210708/k00/00m/030/015000c

・“カナダの村、山火事で壊滅的被害 熱波で最高気温更新後

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN02EB40S1A700C2000000/

・okkaaa,“熱波”https://www.uta-net.com/song/306004/

・メンタルヘルスを考えよう・気候不安症、“https://www.instagram.com/p/CSYyHf3Bh3c/”

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